優しさとはなにか。

定義は人によってバラバラなのだろうが、私にとって優しい人とは、問題にぶつかった時、考えることをやめない人である。いや、考えることをやめる人、やめることができてしまう人は優しくないと言うべきか。

結論を急がず、なにかを考え続けるという行為には苦痛が伴う。苦痛が伴っていないのなら、きっとまだ考え足りていないのだ。そしてそういう態度は、絶対とは言わないが、いつか誰かを傷つけうる。こいつ何も考えてないな、客観性のカケラもねえなと気づく人こそ少ないだろうが、それはひどく利己的なことだ。考え足りていない人は、きっと誰かを傷つけたことにも気づかずに幸せにやっていけるだろう。残念だが社会はそういうふうにできている。これに気づいてしまうとどうしてもちょっと嫌な気持ちになる。でもそれでも考えることをやめないべきだ。

何のために苦痛を伴って考えるか、といったら、それは今の自分にはない新たな視点を見つけるため。つまり、客観性をもつため、柔らかくいえば他者に対し優しくあるためである。もっと善くありたいから考えるのだ。しかし、客観性について考えれば考えるほど、考えるという行為は自分の中でなされるものであるから、自分がひどく主観的であることに繰り返し気づかされることとなり、ジレンマに陥る。それにもさらに苦しめられることになる。例えば、私が「考えることをやめない人」を優しいと考えるのは、実は考えることをやめられない性質の自分自身を無意識下に美化し肯定したいだけなんじゃないか、とか。

そう思えてきてしまったら、この社会において結果はどうあれ過程は重視されうるのだから、「優しくあろうとする努力(苦痛)自体が善であり優しいのだから、私は考え続けます」という薄っぺらい理由づけをしなければならなくなってくる。努力しても優しくなりきれない奴と生まれつき人に優しくできる奴の、どちらが本当に優しいかとかいう、何の役にも立たない思考実験が始まる。でも優しさの定義なんて人それぞれなのだ。前者を好きな人も後者を好きな人もいるのだ。だからとりあえずは、自分の思う優しい人を目指してみるしかない。

ベンサムの言うような最大多数の最大幸福を目指してなるべく多数の人に優しくしたところで、あなたが優しくした相手同士が傷つけ合っていたのなら、あなたの公平性は、場合によっては保身と捉えられるだろう。そしてそれは傷つけられた人の傷をさらにえぐることになるかもしれない。このように物事は全て多面的なのだ。だから一面ずつ見ようとしていくしかない。反対に一見ものすごく意地悪な言動にもその人なりの不器用な優しさが隠されているかもしれない。それに気づかないことで相手はがっかりするかもしれない。人は自分の優しさに似た優しさしか気づけない。人の優しさに気づける人は、それだけきっと優しいのだ。人の優しさに気づけない人は、きっとたくさん苦しんで生きてきたのだ。全ての物事には理由があり、理由を見ようとすることはきっと間違っていない。他人の行動に隠れた良心を見出そうと努めて生きたい。

自分が主観的でダメなやつだと感じてしまっているのなら、きっとあなたはすでにじゅうぶん優しい。というか私はそう信じたい。きっと誰かが見てくれている、社会はそういうふうにできている。だから自信を持ってください。